「きずあと。」 
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「――ほらほら、さっさとサインしちゃいなよー。そしたらアタシが上手いことしてあげるからさ。
 あんまりこの人怒らせちゃヤバいよぉ〜?」
「そうそう、兄ちゃん。若いモンは素直が一番だわね」
「う、うぅ……っ」
 今日もまた、カモが一匹アタシらのエジキ。きゃはは、かわいそー☆
――ま、散々いい思いしたんだから、これくらい当然でしょ。

「今回も上手くいったのう律子」
「うん、チョロいチョロい。きゃはははは☆」
 アタシらに見下されてしょぼくれてるカモの顔ときたら、痛快だった。
「じゃあね鉄っちゃん。アタシは一度店に寄ってから帰るから」
「おう、またあとでのう、律子」
 鉄っちゃんと別れ、ひとり繁華街を歩く。
 この薄汚れたいかがわしいネオン街はアタシにピッタリだ。
 上品とはいえない店で働いて、チンピラと組んで美人局。
 ……こんな典型的な悪い女に引っかかる方が悪いんだ。
 アタシはあの女とは違う。貢ぐだけの余裕のある男からしかむしり取ったりしない。
 今日の相手はちょっと無理してたっぽいから、ほんの少しだけサービスしてやった。
 あんまり追い詰めたら何をしでかすかわからないからね。
 また次のカモを見付けて、稼げるだけ稼いで、そしたら鉄っちゃんともオサラバ。
 男はアタシにとってキャッシュディスペンサー。アタシが本当に信じられるのは現ナマだけ。
 もう金で苦労するのはたくさん。ちょっとくらい無理したって構わない。
 「売り物」として成り立つうちに、バカなカモを引っかけて、稼げるだけ稼ぐんだ。
 一生困らないだけの金を溜めたら、誰もアタシを知らない場所で、ひとりで暮らそう。
 その時までの繋ぎに過ぎない存在なのだ。鉄っちゃんだって、そうだろう。
 ……お互い様なのだ。

「――はぁ、はぁ……」
…………?なに……?
 路地裏から、荒い息遣い。どうやら男の声のようだ。
「う、くぅ……っ!」
――ああ、お楽しみなワケね。はいはい、邪魔者はさっさと立ち去りますよ……。
「う、うわぁあああ……っ!!」
「!!」
 路地裏から飛び出してきたのは、今日のカモ。
 カモのくせに、ネギじゃなく光る刃物を手に、アタシに向かって……!
「ちくしょう、お前のせいで、俺は……っ!」
 ドシュッ……ッ!
「あぐ……っ!」
 むき出しの腹部に、激しい痛み。なんかドクドク流れてきてる。
 ちょっと……なに?どこの二時間ドラマよ、コレ?冗談やめてよね、アタシはまだまだ……。
 バカじゃないの、金のためにこんなことしでかして……あんたブタ箱行きよ?
 アタシにこんなことしたら、鉄っちゃんだって黙っちゃいない……。
 ズシュ……。
「くは……っ、」
 内臓を引きずり出されるような不快な感覚。そしてさらに流れる赤。
 ナイフを引き抜かれたのだろう。口の中いっぱいに鉄の味が広がる。
「う、……えぇっ」
「はは……あはは……、ちくしょう、ざまぁみろ……っ」
 がくりと膝をついたアタシを見下ろし、カモが笑ってる。
 なによ……昼間とまったく逆じゃない……失礼しちゃうわ……。
――ちくしょう。アタシはまだ死にたくない。死んでたまるか。
 アタシは生きて稼いでやる。そして稼げるだけ稼いだら鉄っちゃんともオサラバ。
 アタシは誰も知らない土地でひとりでのんびり暮らすんだ。
『――――――本当に?』
 決まってんじゃん。こんな薄汚い町にいつまでもいる物好きなんていないわよ。
『嘘。あなたはこの街から離れられない。……そうでしょう?』
――――――!?
『だってここは――“あの女”がいた街だから。目的を果たすまではここから逃げるつもりなんてないくせに。
 ……そうでしょう?』
 なんで、どうしてあの女のことを……?
 なによ、この声……。アタシ、本当にヤバいんじゃないの……?
――いつの間にか、地面に倒れこんでいた。変な声はもう聞こえない。
 遠のく意識。カモの笑い声とざわめく声とが、だんだん小さくなってゆく……。

――物心つく頃には、母はいなかった。病気で亡くなったらしいが、よく知らない。
 顔すら知らない。写真は哀しくなるからと父がすべて処分してしまったから。
 父はまだ幼い私を、男手ひとつで育ててくれた。頼れる親戚なんていなかった。
 大変なのはわかっていた。だからアタシは父のために「いい子」でいたんだ。 

 おとうさんは、おしごとがたいへん。だからしっかりしなくちゃ。
 おべんきょうもがんばった。おりょうりだって、いっしょうけんめいやってみたよ。
 おとうさん、はんばーぐすきだよね?りつこがんばったよ。……おいしい?
 おそうじにおせんたく。からだがちいさいからたいへんだったけど……。
 でもね、ちゃんときれいにできたんだよ。すごいでしょ?
 おとうさんがいなくてもだいじょうぶ、よるもひとりでねむれるようになったんだよ。
 さびしくないよ、だいじょうぶ。だからおとうさん、おしごとがんばって――。

 アタシがひとりでも大丈夫なことに安心した父は、ますます仕事に精を出すようになった。
 趣味を持たない父は、休みの日までがむしゃらに働いた。
 アタシが中学に上がるころになると、父と会う機会はますます減った。
 勉強のこと。友だちのこと。男の子とのこと。進路のこと。相談したいことはたくさんあった。
 ……でも、たまに帰ってきた父は、アタシにまともに向き合ってくれない。
 せっかく一緒に過ごせると思った夕食時、父に電話がかかってきた。いつもの電話だ。
――漏れ聞こえてくる、大人の女性の声。受け答える父の口元が嬉しそうに緩んでる。
 アタシと一緒の時にはこんな表情しなかったのに。
「今すぐかけ直すから……」
 父はアタシを見ないように受話器を置き、いそいそと自分の部屋へ行ってしまった。
 ……アタシの作った夕食が、父の大好物のハンバーグが、冷めてゆく。
 このハンバーグは、もう食べてもらえないだろう。アタシはそれを流しに捨てる。
 気付いてた。電話のある夜はきまって出かけて、翌日まで帰ってこないことに。
 そして帰ってきた父の背広から、甘ったるい香水の匂いがすることも。
 なんだかとても不快だった。
 それでも高校は必死に受けた。褒めてもらいたかった。頭を撫でて欲しかった。
 だから受かった時は本当に嬉しかった。これでアタシをちゃんと見てもらえる。
 褒めてもらえる……。ドキドキしながら報告すると、
「そうか。じゃあ書類を置いておきなさい。手続きはしておくから――」
 そう言って、またいそいそと出かけて行ってしまった。
 アタシはキッチンのテーブルに書類を置いておく。
 そしてアタシが学校に行ってる間に手続きは済まされていた。
 ……事務的な、淡白なやり取り。喜んですらもらえなかった。
 喜んでくれたのは、学校の先生や友だちだけ。
 電話の回数が増えてゆく。父の不在も多くなる。そしてまた香水の匂い。
 …………くだらない。
 アタシは授業に出なくなった。あんなに頑張って入学した高校だけど、もうどうでもよかった。
 いい子にしてたって意味がないことに気付いたから。
 制服のまま街をブラブラ歩き回ってるうちに、アタシのまわりは似たような輩だらけになった。
――みんな片親だったり、家に問題があったり。
 それぞれ事情は違っていても、気持ちは同じ。……嬉しかった。
 みんなしてくだらない話をして笑いあった。
 酒にタバコ。夜遊びにケンカ。典型的な不良娘。ハチャメチャだけど、充実してた。
 だって家なんかより、こっちの方がずっと居心地がいい。アタシの場所がある。
 あの家には、アタシの居場所はきっとない。女を連れ込むなら、それでいい。
 アタシはこっちで好きにやる。だからあんたも好きにすればいいんだ――。
 好き勝手にやっていたある日、……虫の知らせとでもいうのだろうか。
 ふと、家に足が向いた。珍しく自分のベッドで寝たくなったからだ。
 どうせ父は仕事か女かで家にはいない。
 女を連れ込むのは近所の目があるから無理だろうと気付いて、ちょっと安心した。
 あの香水の匂いを嗅ぐのは、もう嫌だったから。
 こっそり一泊して、昼間に出てゆけば見つかりっこないだろう。
――が、父はいた。天井からロープでぶら下がった、物言わぬ肉塊として。
 …………なによ、コレ…………。
 そこから記憶が途切れてる。
 一応変死ってことで警察で話を聞かれたとこからはおぼろげに覚えてる。
 アタシの素行の悪さは地元では知れ渡っていたから刑事とやらの口調は厳しかったけど、
 父の死に不審な点はまったくなかったそうで、すぐに解放された。
 覚悟の、自殺。そういうことだった。
 女に貢いだあげく、文無しになった上捨てられての自殺――なによソレ。バカじゃないの?
 ご丁寧にビニールシートやタライや脱臭剤まで用意して、事前に下剤ですべて排泄して、
 垂れ流しでこの家の処分時に不利にならないように気を遣っていたようだ。
 ……それならどこかよそで済ませてくれればよかったのに。
 自殺者の出た家なんて、よほどの貧乏か物好きじゃないかぎり買わないでしょうに。
 まあ、数年前に加入していたという生命保険金でアタシに借金は残らなくて済むことだけは
 褒めてやってもいいだろう。難しいことはわからないし知りたくもないけど、
 マイナスにさえなんなきゃ、それでいい。
 別に未練のある家じゃないし、不良仲間だっているから仮住まいには当分困らない。
 生きてるか死んでるかの違いだけで、父がいないことには慣れていたから。
 葬式やら家の処分や何やらは、町内会の人がやってくれた。
 ……きっと不良娘に任せておけなかったんだろう。アタシが金品に未練がないとわかると、
 ますます協力的だった。
 いいよいいよ、好きなもん持ってって。だから早く、このめんどくさいの終わらせて。
 アタシはもう何もかもどうでもよかった。父のことも。自分のことも。
――刑事に渡された父の遺書を読むまでは。

 几帳面だけど、ちょっと震えた父の文字。
 興宮の夜の街。働きづめで疲れていた父はそこで女に出会ったと書いてある。
 女のいる店や名前については何も書いてなかった。
 ……書き残さなかったのは、彼女への断ち切れない情のせいだろうか。
『彼女の可愛いおねだりは、律子に甘えられているようで嬉しかった。わたしの寂しさが、
 金品と引き換えに薄れてゆく。そう思えた。――いつか彼女と家庭が持てたらいい。
 そして律子と三人で新しい生活を始めたい。
 ……笑ってくれ律子。そんな叶うはずのない願いを糧に、わたしは生きるようになってしまったのだ』
 女のささやかなおねだりは、だんだん大胆になり、頻度も金額も増えていった。
 故郷の父が病気だ、悪い客に絡まれた、友だちが事故に遭って金が必要だ――。
 小娘のアタシにだってわかる、くだらない手口。
 でも遊び慣れない父は素直に信じてしまったのだろう。
 大丈夫よ。結婚すれば、ウチの故郷の持ち山を売ってちゃんと返せるから。
 今度一緒に両親に会いに行きましょうね。
  ――あ、だったらちゃんと指輪もつけて行きたいなあ。……ね、いいでしょ? 買ってくれる?
 ……その光景は容易に思い浮かぶ。
 結婚をチラつかせれば、寂しい男ヤモメなんて一発だろう。
『わたしは彼女に金品を与え続けた。律子のために貯めておいた学費や結婚資金まで使い果たして』
 ………………そんなもの、いらなかった。
『……そしてとうとう、限界が来た。これ以上はとても出せない。
 がむしゃらに働いても、彼女の要求には応えられそうにない。
 彼女にそう告げた時の豹変振りが、今でも頭から離れない――』
「はん、シケた親父だねぇ。金がないんならあんたもう用ナシだから。
 あたしにこれ以上つきまとったら、ウチの怖いのが黙っちゃないからそのつもりでね」
 当然だろう、女には父みたいなバカなカモがたくさんいる。金の切れ目が縁の切れ目。
 カモの一匹に過ぎない父がどうなろうと、知ったこっちゃないだろう。
 でも父は、父には彼女だけだったから、きっと必死ですがっただろう。
「――あ、そうそう。もう少し賢くなった方が娘のためにもいいと思うよぉ?あたし生憎天涯孤独の身の上でねぇ。
 故郷なんかないし、持ち山だって当然ナシ。今どきこんなバカげた話、信じる方がどうかしてるよ。
 あはははははははは。――おら、いつまでもアホ面晒して突っ立ってんじゃないよ、とっとと失せろやおらぁ!!」
『天使の笑みでわたしを迎え入れてくれていた彼女が、心底軽蔑した目でわたしを見る。
 口元をゆがめた嫌な笑いで、わたしを拒絶する。――わたしは今になってやっと、騙されていたことに気付いた。
 妻を失い、がむしゃらに働いて、働いて――。わたしには、何も残らなかった』
 …………哀れな男。
『律子。すまなかった。寂しさを夜の街で埋めようとせず、お前と二人で、妻との思い出を大切にしながら生きてゆけば
 よかった。――いくら後悔しても、もう遅い。家に帰ってきて思い知った。ひとりの食事は、とても寂しかった。
 お前に寂しい思いをさせていたことに、今頃気付いた。このまま帰らぬお前を待ち続けるのはとても辛い。
 学校に通っていなかったことも知らなかったわたしには、お前の交友関係すらわからない。
 ――すまなかった。せめて思い出のあるこの家で、わたしはこの世を去ることにする。
 後に残されるお前が苦労しないよう手配はしておくつもりだが、拒否してくれても構わない。
 お前がこの遺書を見てくれるかどうかもわからないが、本当にすまなかった。
 わたしのことなど忘れて、どうか幸せに生きて欲しい……』
 最後まで、勝手な父親だった。愚かな男。ただそれだけ。憎しみも流す涙すらもない。
 後に残るのは、あの女への不快感だけ。
 金がすべてを、狂わせた。
 学費?結婚資金?そんなもの、いらなかった。
 アタシはささやかでもいい、暖かい暮らしがしたかった。
 父ががむしゃらに働きさえしなければ、寂しいこともなかった。
 寂しさを夜の街の女なんかで埋めることもなかった。
 金をあんなに貯めさえしなければ、女に貢ぐことだってなかった。
 あげくの果てに「すまなかった」?バカ言ってんじゃないわよ。
 金に振り回されて、ホントにバカみたい。
 アタシは金に振り回されたりなんかしない。むしろ支配して、使いこなしてやる。
 アタシは、あの女とは違う。もっとずっと、上手くやってやるんだから――!
 
「う…………ん」
 長い夢の終わり。ぼんやりとまぶたを開けると、そこは真っ暗だった。
「ここは……?」
 ゆっくりと身を起こす。――あれ? 刺されたはずなのに、どこも痛くない。
 アタシ、いったい……?
「――目が覚めましたですか」
「――――――っ!!」
 背後に突然響く声に、アタシはびくりと身を震わせる。
 一見幼く聞こえたその声に、なぜか不思議な威厳があったから。
 恐る恐る振り向くと、うすぼんやりとした視界に、声の通りの少女が立っていた。
 巫女の服、頭には角飾りという妙な格好だったが、不思議とおかしみはない。
「はじめまして間宮律子。――僕は羽入」
「は……にゅう?」
 変な名前。源氏名じゃなさそうだけど……。
 でも、この頼りなげで浮世離れした雰囲気の少女にはふさわしい名前かもね。
「あんたアタシを知ってるんだ。……ここはどこなの?あんたはナニ?どうしてアタシはこんなとこにいるのよ?」
 なんだか嫌な予感がした。こんな真っ暗ななんにもない場所で、
 しかもアタシはケガひとつなくて、これじゃまるで――。
「――そう。律子は……あなたが騙した男に刺されて――死んだのですよ」
「………………っ!!し、死んだって、アタシが!?」
「はい。死にました。」
 目の前の少女はとんでもないことをさらりと言ってのけた。
 予想は付いていても、とても受け入れられることじゃない。
「ま、待ってよ!アタシ生きてるじゃん!――ほら、身体だって温かいし、心臓だってちゃんと……」
「でも、死んでいるのですよ」
「フザケないでよ、アタシは帰る!帰ってまた稼げるだけ稼いでやるんだから!!
 ――あんた、帰る方法とかわかんないの?」
「………………」
 羽入は無言で突っ立ってるだけ。何も知らないとでも言いたげなすっとぼけた表情。
 でもこいつはアタシの本名だって知ってるんだ。だったらきっと……。
「気に食わないね……。あんた知ってるんでしょ?知ってるくせに黙ってんでしょ?――なんとか言えよおらぁ!!」
 修羅場で身につけたありったけの凄みをきかせて怒鳴りつけたとたん。
「――――――黙れ」
「――――――っ!!」
 羽入の瞳が、気味悪く光った。黒く濁った瞳の中心が血のように赤く光り、
 アタシをとらえて離さない――。
「ひ…………っ」
 嫌な汗が背中を流れる。……こいつは、怒らせちゃいけない。
 アタシだって分のないケンカをするほどバカじゃない。――落ち着け、アタシ。
 呼吸を整えて、動揺を見せないように……。
「――ごめん、アタシが悪かった。……羽入は帰る方法を知らないの?」
 なるべく穏やかな口調でそう言うと、羽入の瞳が元の輝きを取り戻した。
 そのとたん、身体中の緊張が解けて、膝が抜けそうになった。……情けない。
 さっきと同じ、頼りなげな雰囲気の少女。
 ……けれどそうじゃない。こいつはアタシなんかよりずっと格が上なんだ――。
 そう理解したら、なんだか逆に落ち着いた。ここまで格が違うんじゃ話にならない。
 アタシはこいつに逆らうことはできないんだ。勝負に出るまでもない。
 歴然とした事実の前には、不思議と悔しさは感じない。ただそうなのだと思えた。
 まな板の上の鯉。ライオンを目の前にした子ネズミ。
 その先の恐怖もすべて受け入れた、そんな穏やかな心境だった。
――それに少なくとも、アタシが敵意を見せさえしなければ羽入はアタシに危害を加えたりしない。
 格上の者の余裕が見られるから間違いない……。 
「……無理なのです」
「――――――え?」
 アタシが本当に落ち着いたのを理解したのだろう。羽入がぽつりと呟いた。
「今の律子には帰れないし、たとえ帰れたとしても、またすぐこっちに戻ってきてしまうのですよ」
「……どういうことよソレ?」
 わけがわからない。でも羽入がそう言うのならきっとそうなのだろう。
――なら、アタシはいつまでこうしてればいいの?早く帰ってまた稼ぎたいのに……。
 あれからどれだけ時間が経ってるんだろう。
 アタシがこっそり貯めておいた金はちゃんと保管されてるんだろうか。
 鉄っちゃんに見つけられるようなヘマはしてないはずだけど、園崎組が動き出したら
 ヤバいかも……ああもう、気になって仕方ない。金金カネカネ、アタシの金……。
「――律子は、何のためにそんなにお金を稼ぐのですか?」
 焦るアタシの気持ちを読んだかのような羽入の問いかけ。
「何のためって、そりゃ決まってるじゃん。金さえあれば不自由しない。
  怖いこともひもじいことも不安になることもない。アタシみたいな女が増えることもないでしょ」
 そうさ、あんな思いはもうたくさん――。

――父が死に、アタシはひとりぼっち。
 施設に入れられそうになったけど、冗談じゃないと突っぱねた。
 高校だってちゃんと行ってなかったアタシに、堅っ苦しい共同生活なんてできっこない。
 父と離れて過ごしているうちに、アタシの世界は変わってしまったから。
 ……一文無しの不良娘なんて、別に引き止められもしなかった。当然だ。
 あちらさんだってわざわざボランティアでトラブルを引き受けたくなんてないだろう。
 まあ義務教育は終わってるし、父の遺書にも拒否していいとある以上、
 アタシがイヤなら強制はできないようだった。
 それでいいんだ。アタシはひとりで生きてゆく。生きてゆける女だから。
 とにかく、どんなことをしてでも金を貯める。
 学のない小娘が、ちょっとくらい年をごまかしてでも住み込みで働ける仕事といったら、
――当時はまだそんなに締め付けも厳しくなかったから、うまいこと職にありつくこともできた。
 媚は売りまくったけど身体を切り売りすることなかった自分を、褒めてやりたい。
――アタシは自分を安売りせず、これと決めたカモから金をむしりとってやるために
 身体も話術も磨いた。自分を磨けば、自然と自信もついてくる。
 そしてその堂々とした態度にある種のだらしない男が惹かれて寄ってくることも理解した。
 そういう男は、えてして遊び下手で小金を持っているものだ。――父みたいに。
 しばらくひとりで稼いだ後は美人局に方法を変えた。単身だと危険もあるしね。
 利用するだけしていずれはポイとはいえ、味方がいる方がなにかと心強い。
 鉄っちゃんと一緒に、アタシはさらにカモからしぼり取ってやった。
 でもアタシはあの女とは違う。再起不能になるまでむしり取ったりはしない。
 アタシはあの女なんかよりもっとずっと上手くやってみせる。
 バカなカモたちからうんと稼ぎまくってやるんだ。
 そしていつかあの女の前で、ありったけの札束を見せつけながら――
――喉から手が出そうなほど物欲しそうな顔で、猫なで声で寄ってくるあの女の目の前で、
 札束に火をつけてやるんだ。
 きっとあの女は泣き叫ぶ。なんてことをしてくれたんだとヒステリーを起こすだろう。
 その目の前で、灰になった札束をヒールで踏みにじりながら、
「――こんな紙きれにムキになっちゃって、バッカじゃないのぉ?」
 そう言って笑い飛ばしてやるんだ。
 あの女が父をバカにしたように。――これが、アタシの復讐――。
 今まで誰にも心を許さず秘密にしていた、アタシの生きる理由。
 鉄っちゃんにすら言わずにいたそれを、アタシはなぜか羽入に話していた。

「――律子は、そうしたら気が済むのですか」
「多分ね。あの女が生きてるかどうかもわからないし、もう興宮にはいないかもしれない。
 たとえあの女に会うことができて実行に移せたとしても、そん時になってみないとわかりゃしないね」
「あなたの行為が悲劇の連鎖を引き起こすとしても――ですか」
「なによソレ?……どういうこと?」
「わかってるくせに。あなたを刺した男だけじゃない、今までカモにしてきた男たちにだって家族はあるのですよ。
 律子はほどほどに巻き上げているつもりでも、相手は本気なのです。
 本気の気持ちを弄んだらどういうことになるか、それがわからないほど律子は愚かじゃないはずですよね?
 律子がずっと見ないふりをしてきた悲劇を――見せてあげるのです」
「――――――っ!?」
 羽入が消え、そしてアタシはなぜかいきなりどこかの部屋の中にいた。
「……なによ、どこよここは!?」
『律子がずっと前にカモにした男の――娘の部屋なのですよ』
 頭上に響く羽入の声。娘……?
 なるほど、タンスやベッドの上のぬいぐるみから女性の部屋であることがわかる。
 机の上には通学カバン。壁にかかった制服からして、おそらく中学生くらいだろう。
「羽入、いったいどういうつもり?勝手に入って、もし見つかったら、……っ!?」
――ドアの横の姿見に、アタシがうつってない。
『大丈夫。律子は誰にも見えないのです。声も届かない。触れることもできない。
 律子はただ、これからここで起こることを黙って見ていればいいのですよ』
「そんな、勝手に――」
 ガチャ……。ドアが開き、おかっぱ頭の少女が入ってきた。
 風呂上がりなのだろう、パジャマ姿の少女の髪はまだ少し湿っていた。
 ……アタシ、どれくらいお風呂に入ってないんだろう。
 あれからどれだけの時間が経ってるかわからないし、アタシには実体もないのかもしれないけれど、
  それでも目の前の少女がちょっと羨ましかった。
 それなのに少女はやけに沈み込んだ様子でベッドに腰掛けたまま。――辛気臭いねぇ。
「……汚らしい」
――――――っ!?ちょっ……アタシ臭うの?…………って、そんなワケないか。
 少女は思わず驚いてしまったアタシに気付くことなく立ち上がり、
 机の上のカバンを手に戻ってきた。ギシ……。少女が再びベッドに深く腰掛けた拍子に、
 顔にかかっていた髪がサラリと流れた。
 ……なんて、表情――――。
 目の下に深く刻み込まれたクマ。風呂上がりなのに青い顔色。少しこけた頬。
 そして何かに絶望したような、うつろな瞳。
――と、その瞳がアタシの方へと向いた。この子……アタシに気付いた!?
 すうっと、アタシに向かって手が伸びる。
「――――っ!!……あれ?」
 少女の手は身をすくめるアタシをすり抜け、ベッドの上のぬいぐるみをひと撫で。
 なんだ……驚かさないでよね?
 少女が撫でたのは、小さなウサギのぬいぐるみ。少しくたびれて見えるのは、
 一番可愛がられているからだろう。
 一瞬だけ優しい笑顔を見せた後、少女は正面に向き直り、太ももの上でカバンを開けた。
「あたし、もう……わかんないよ」
 カバンの中を探りながら、少女は淡々と呟く。ぬいぐるみへの語りかけのようだったが、
 まるでアタシに話しかけられてるみたいで落ちつかない。……あんたも悪趣味だね羽入。
「お母さんはいいよ。“お母さん”が……お婆ちゃんがいるもん。でもあたしのお母さんは……あたしを置いて
 “実家”に帰っちゃったんだよ。あたしの実家はここだけなのに、今まで幸せだったのに、今は、あたし一人だけ……。
  どうして、お父さんは……」
 ペンケースの中からカッターナイフを取り出し、チキチキと刃をくり出す。
 ちょっと……何しようってのよ?
「あたしは邪魔者みたい。お父さんにはよそに女の人がいるし、お母さんもあたしはいらないんだ。
  あたしがいなければ、きっと上手くいくんだよね?……ふ、うぅ……っ」
 少女の疲れきった瞳からこぼれる涙が、手首に落ちる。
 カッターの刃があてられた、小刻みに震える手首の上に。
「おとうさん、おかあさん……っ!」 
 少女の叫びとともに、カッターを持つ右手が、勢いよく――。
「ダメ…………っ!!」
 思わず止めに入った手は少女の身体をすり抜け、同時に部屋ごとかき消えてしまった。
――そしてまわりは、さっきまでの深い闇。
「…………っ、はぁ、はぁっ……」
 心臓が、ばくばく鳴ってる。嫌な汗が噴き出してくる。息が苦しい。
「なによ……なんだってのよ、コレ……っ!」
「なにって、……律子が美人局で崩壊させた家庭なのですよ」
 背後に響く、羽入の淡々とした声。身体中に鳥肌が立つような嫌な感覚が走る。
 アタシが……崩壊させたって? 
「そんな……アタシはそこまでヤバくなるほど一人からしぼり取ってないよっ!?大勢から、少しずつよ?
  それならたいしたダメージなんてないじゃないっ!!」
「……そんなワケないでしょう。律子にとってはキャッシュディスペンサーに過ぎない男にだって、愛して必要とする女や
 家族がいるのですよ。いくら金銭的なダメージは少なくても、心を奪われたショックは大きいのですよ。
 その影響を考えたことないなんて言わせない。経験者のあなたならわかっていたことでしょう?」
「……ねぇ、あの子は?あの子はどうなったの?――答えて、羽入!!」
 情けないほどに震える声を、アタシは必死に振りしぼる。
「……聞いてどうなるのです。もう元にはけっして戻らない、過ぎたことなのですよ。たとえ助かったとしても、
 少女の心の傷は大きい。今回“失敗”したとしても、きっとまたすぐに同じことを繰り返して、いつか“成功”させるだけ。
 ――あのまま助からなかったら……そうですね、夫の浮気に動転して実家に帰っていた妻が娘を思い出し帰宅して、
 血まみれの少女のなきがらを発見するでしょう。後を追うかもしれないですね。夫はあなたにカモにされたショックで
 のたれ死ぬかもしれません。たとえ改心して帰宅したところで、家に待つのは悲劇だけ。
 娘のなきがらか、娘と妻のなきがらか、娘のなきがらの横で包丁を手に待ち構える妻がいるか、経過は違っていても、
 もう平和な日々は戻らない。――これはほんの一例。律子が重ねた罪の分だけ起こった悲劇の、わずかひと握り」
 羽入の語る言葉通りの世界が、目の前を流れては消えてゆく。
 ベッドの上のウサギのぬいぐるみが、抱きしめようと手を差し伸べて力尽きた少女の血で
 真っ赤に染まっていた。そしてその血が、この世界一面を真っ赤に染め上げて――。
「――あ、あぁ……っ、うわぁあぁああ……っ!!」
 なによ、なんなのよ、コレ。アタシ、なにをしてきたの?
 もう死んでるかもしれない、顔すら知らない、会えることなんてないだろうあの女への、
 くだらない復讐のために、アタシは今まで――――。
「どんな人間にも、愛し愛される人がいます。たとえ本人がそれに気付いていなくても、その繋がりを感じとって生きて
 ゆくものです。――律子にも、ほら……」
 羽入の手の中から、ホタルみたいな小さな光が飛んできた。
 その輝きで、まわりの赤が消えてゆく。そしてその光は、アタシの胸の中へ――。

「――おお、女の子か!」
「うふふ、嬉しそうね、あなた?」
「ああ、嬉しいさ、嬉しいとも!……名前はもう決めてあるんだろう?
  わたしはどうもセンスが悪いからね……君に任せるよ」
「ええ。……『律子』。自分を律することのできる、そんな心の強い優しい子になって欲しいわ」
「律子か……いい名前だな」
「律子ちゃん、あなたの名前よ。――わかるかしら?」

――声が、聞こえる。
 仲睦まじい、幸せそうな暖かい声。
 とても穏やかな父の声と――まだ幼いうちに死んでしまったから覚えてないはずなのに、
 それでも母の声だとわかる。
 自分を、律する――あはは、アタシ正反対じゃん。全然ダメじゃん。
 こんなんじゃ、ぜんぜん……っ。
「う……わぁああああ……っ、あぁああぁあああ……っ!」
 本当にバカだ。バカだった。いくら泣いたって、もう意味なんてないのに。
 でも止まらなかった。カモを操る時のうそ泣きとは違う、熱くて痛い涙だった。

「――落ち着きましたか?」
「……羽入。父さんと母さんは、ここにいるの?……合わせる顔なんてないけどさ」
「ここにはいないのですよ。律子とは違う場所にいるのです」
「そっか……ま、こんなバカ娘にゃ会わない方が幸せだろうね」
「律子は、どうしたいですか?……このままこの世界で、再び生まれ変わるのを待ちますか? 
  どの時代のどの世界に生まれ変わるかはわかりませんが、罪に気付いた今の律子なら、きっとどこでも上手くやって
  ゆけるのですよ。罪は律子の魂の中で、浄化されるのを待つことになります。
  誰も、あなた自身も、あなたの罪を知りません。まっさらな新しいあなたです」
「まっさらの……アタシ」
「そうです。あなたは“間宮律子”でもない、ひょっとしたら女でも、人間ですらもない生物かもしれません。
 今のあなたとはまったく関わりのない存在になると思いますです」
「律子じゃ……なくなるんだ」
 今までの罪がなかったことになる、それはとても魅力的だった。でも……。
 羽入が口をつぐむアタシに向かってやわらかく微笑む。
「それとも――一生消えない傷跡が残るほどの怪我を負った状態で、元の世界に生還しますか?」
「え?……生還……って、」
「律子はまだ……完全に死んだわけではないのです。ここにあなたがいるということは、そういうことなのですよ」
「生き返れるんだ……アタシ」
「そうです。でも、腹部の無残な傷跡と同じように、たくさんの罪も消えずに残っています。
  けっして消えることはありません。男を追い詰めたことも、今までたくさん行なってきた美人局も。
  警察沙汰になることはなくても、罪滅ぼしをしなくてはならない。
  そして罪滅ぼしをしたところで、犯した罪を消すことはできやしない。失った命は戻らない。
  それでもそこには――あなたを待つ人が、います」
「アタシを?……いるワケないじゃん、そんな人――」
 父も、母も、もういない。女は敵だし、男はカモだ。
 信じられる人間なんて、アタシには……。
「目を閉じて。そのまま静かにしていてください。――見えてきましたか?」
 言われるまま、まぶたを閉じる。黙っていると、小さな嗚咽が聞こえてきた――。
「……う、ぐぅ……っ。律子、律子ぉお……っ!」
 鉄っちゃん……!
「わしが……わしが悪かったんね。お前をエサにして男から金をむしり取ってやるだなんて汚い真似をして平気でいる
  から、きっとバチが当たったんね……!律子、すまんかった。わしが悪かった。だから、死なんでくれぇ……っ!」
 ぼんやりと、まぶたの奥に浮かんでくる。
 白い部屋のベッドに横たわる、変な機械へとつながるコードがいっぱいついた、
 アタシらしい物体。
 その横のガラスに遮られた部屋で、顔中ぐしゃぐしゃにして泣いてる鉄っちゃん。
「――彼も、いろいろ抱えていたようですね。たとえ最初は金目当ての付き合いだったとしても、
  いつの間にかあなたが心のよりどころになっていたみたいです。……律子と同じように」
 羽入の声にまぶたを開けると、元の真っ暗な世界。鉄っちゃんの声ももう聞こえない。
「鉄っちゃん……も」
「彼の過去も覗いてみますか?彼が今のような彼になった、そのわけを」
「――やめて。見なくていい。いつか彼がその気になって、自分から話してくれるまで、知らなくていい。
  ――アタシも自分で打ち明けるまでは、鉄っちゃんに知られたくないからね」
「――それじゃあ、決まりですね」
「そうなるみたいだね。――元の世界にあんたはいるの?」
 優しい笑みが、少しだけ哀しそうにゆがむ。
「律子には見えないけど――いますですよ」
 ああ、そっか……羽入はここでしか見えないのか……。
「――でも、あんたは『いる』んでしょ?それならいいよ。……また会おう、羽入」
「はい……!」
 見かけ通りの少女のような、少しはにかんだ嬉しそうな笑みを浮かべ、大きく頷く。
 そして、ふいに真面目な顔をアタシに向けて。
「元の世界は、律子にはとても厳しいものになると思います。でも、必要としてくれる人がいるのだから、きっと大丈夫。
  たとえ傷を負っても……嘆かなくていいのですよ」
 哀しげな表情で角飾りに手を添える。
――よく見ると、角には模様のようにくっきりとした傷が刻み込まれていた。
 アクセサリーじゃなかったんだ……。ま、別にあったって不思議じゃないけどね。
 それにアタシだって心に角を生やしてたんだから。
 心にあるか、身体にあるか、違いはそれだけ。
「――人は、心にも身体にも傷を負って生きてゆくものです。何度も過ちを繰り返し、みっともなくあがいて――
 それでも僕はそれがまぶしく羨ましいのです。律子の傷跡も誇りに思っていいのですよ」
「羽入、聞いていい?……あんた、どうしてアタシなんかのためにこんなこと……?」
「僕は、ずっとあきらめていました。努力もせずに怠惰な世界に溺れ、それに大切な人を巻き込もうとしていました。
 ……ひとりはとても寂しかったから。でも、僕の大切な人は――梨花は、あきらめませんでした。
 文字通り身を裂かれる苦しみを受け入れ、自らの魂にそれを刻みつけようとしたのです」
 まわりの闇が揺らぎ、そしてノイズのかかったような色あせた世界へと変わる。
 これは――羽入の過去……?羽入の心が、アタシの中に入ってくる。

「ぐ、うぅ……っ!かはぁっ」
「うふふ。梨花ちゃん、見えるかしら?ほら、これがあなたのワタよ。綺麗ねえ……くすくすくす……」
 身を切り裂かれる激しい痛みと、内臓を引きずり出される得体の知れない不快感に耐える
 梨花の目の前に、月明かりに照らされた、血に染まった臓物がつきつけられる。
 その独特のフォルムは、まるで数珠のよう。数珠つなぎの、僕や梨花やみんなの思いが
 無残に晒し者になっているのだと思うと悔しくてたまらなかった。
――僕はそれを手に愉悦の笑みを浮かべる鷹野を、――“犯人”の姿を目に焼きつける。
 梨花の努力が無駄にならないよう、魂に刻み込む。
 見てももらえない、声も届かない、触れることすら叶わない。
 そんな僕にできることはわずかだけど、ほんの少しでもできることはあるはずだから。
 たとえささやかなことでも、災いの芽を摘むことができればいい。
 梨花が再び目覚めた時に、梨花の負担が少しでも軽くなるように。
 この梨花の大いなる勇気に、少しでも応えたい――――!
「――あら、梨花ちゃんはもうおねんね?もっと楽しみたかったのに、残念だわ。おやすみなさい、くすくすくす……」
 鷹野の声が、遠く、小さくなってゆく……。

――世界が揺らぎ、元の暗闇に戻った。
 あんなに幼い少女へと加えられる、おぞましく不快な行為。
 刺された痛みを思い出し、思わず腹部を押さえてしまう。
 羽入の悲痛な決意がダイレクトに伝わってきて、あの女なんかよりもっと酷い悪魔のような
 女への怒りが、アタシの魂にも刻み込まれた気がした。
「……僕も、梨花の無残な姿をけっして忘れまいと魂に刻み込みました。そして次に目覚めた時、僕はちゃんと覚えて
 いました。……嬉しかった。逃げないで、向き合って、必死にあがいて……それがちゃんと実になったのです。
 梨花の最期の努力は無駄じゃなかったのです。僕は、梨花が目覚めるまでの間に、僕にできることをしようと
 思いました。……だから僕は、ここで目覚めた律子に会いに来たのです」
「アタシが変わると、その梨花……って子のためになるの?
 アタシは会ったこともない、名前だって知らなかった子なのに」
「はい。たとえ律子が知らなくても、どこかで繋がっているのです。ほんのささやかなことでも、きっと」
「そっか……梨花って子にもよろしくね。事情はわからないけどさ、あんたたちが幸せになるよう祈るよ。
 ……あはは、神様に祈るなんて、アタシはじめてかも」
「……みんなは僕に自分や村の幸せを祈りました。でも、僕自身の幸せを祈ってくれたのは律子が初めてかも
 しれませんのです」
「…………え?」
「なんでもないのです。ひとりごとなのですよ☆」
 いたずらっぽく羽入が笑った。
「――律子。ありがとう。僕は律子とこうして会えて嬉しかったのです」
 向き合って、ぺこりとお辞儀をする。上げた顔は、とても穏やかだった。
「何言ってんの。お礼を言うのはアタシの方じゃん」
「さよならは言わないのです。元の世界で待ってるのですよ、律子」
「うん、またね羽入。――ありがとう」
 すう……。アタシと羽入の手が触れた瞬間、指先からアタシの姿が消えてゆく。
 アタシが闇に溶け込んでしまうその最後の瞬間まで、
 羽入は飛びきりの笑顔で手を振っていた――。

――気がつけば、白い天井。薬品の匂いが鼻につく。
「律子……っ!」
 ぼんやりうつる、涙でぐしゃぐしゃの顔。
「鉄っちゃん……あぐっ!」
 起こそうとした身体に、鋭い痛み。
「まだ起きたらいかんわね。……もう少しであの世に行っちまうとこだったんだわね」
 そっと手で探ると、腹部には包帯が巻かれていた。
「あぁ……そっか、アタシ刺されちまったんだっけ……あ〜あ、ヘマしたなぁ」
「命があっただけでもめっけもんだわね。……あの男は園崎組が身柄を預かっとる。あいつらのシマだから、
 警察沙汰にはなんねえ。その代わり――」
「わかってる。治療費ぐらい今まで貯めた金でなんとかなるよ。アタシは鉄っちゃんと違ってギャンブルで使い果たしたり
 しないで堅実に貯めてたから心配要らないよ。――知らなかったでしょ?」
「ああ、……意外だわね……」
 鉄っちゃんは見かけによらずしっかり者だと感心したように何度も頷く。
 貯めた理由がなんであれ、金は金。先の見えない状況ではありがたかった。
「――鉄っちゃん、葛西にかなりシボられたでしょ?シマを荒らしたって。
 ……アタシもクビかなぁ。こんな騒ぎを起こしちまって、しかもこんな状態じゃ出勤なんて当分できそうにないもんね」
「それがな律子。変な話なんだが……わしらは律子が退院したら、雛見沢の北条の家に住むことになったんだわね」
「――――――はぁ?なによソレ、どういうこと?……いたたっ」
「あー、動いちゃいかんわねっ!……わしからじゃ上手く説明できんわね。事情を説明したいから律子が目覚めたら
 知らせて欲しいと言われとって外で待っててもらっとるんだが……来てもらっても大丈夫ね?」
「うん、アタシは大丈夫……」
 鉄っちゃんはその人を呼びに病室を出て行った。……一体どういうことだろう?
 鉄っちゃんは雛見沢にいい思い出なんてないはずだ。
 差別されて、不快な思いをして逃げ出してきたって、彼から何度も聞かされていた。
 二度と戻りたくないって言ってたのに……。――誰なんだろう。葛西か?
 あいつは園崎組の重鎮だし、雛見沢は園崎の支配下にあるって聞いた。
 そんなとこで暮らすなんて相当キツいだろう。ましてアタシらは犯罪者なんだから。
「……でもまぁ、ブタ箱よりはマシなのかもね」
「雛見沢にはブタさんなんていないのですよ。猫さんならいるのです。にゃーにゃー」
「………………え?」
 自嘲気味の呟きに応えるように入ってきたのは、小学生くらいの女の子。
 サラリと流れる長い黒髪と吸い込まれそうに大きな瞳が印象的だ。
 こんな小さな子が、アタシに何の用だっていうの?
「はじめまして律子。ボクは梨花。古手梨花といいますです」
「りか?……梨花……。――――あっ、」
「律子、梨花ちゃまを知っとるんね?」
 “さっき”までいた、あのなにもない真っ暗な世界。
 あの不思議な世界の中で羽入が語っていた少女の名。
 あのおぞましく辛い残酷な光景の記憶は、目覚めたアタシの中に、確かに残っていた。
 狂ってるとしか思えない女に身を切り刻まれ、辱めを受けていた少女。
 その子が今、アタシの目の前にいる。
「――律子?起きたら身体に障るわね……!」
 アタシはいつの間にか痛いのも忘れて半身を起こしていた。
 鉄っちゃんが慌てて背中に差し入れた枕に、アタシはそのままもたれて深く息をつく。
「……この子に会ったことはないよ。でも……」
「はい。律子に会うのは初めてなのですよ鉄平。でも、ボクがぐーぐー眠ってる間に、ボクの大切な仲間がお世話に
 なったのです。そして今の律子なら、鉄平と一緒にボクの力になってくれるだろうって」
 羽入のこと……だよね。
「梨花ちゃまは雛見沢の神社の娘で、オヤシロさまの生まれ変わりと言われとるんね」
「オヤシロさま…………あっ!」
「にぱ〜☆」
 “梨花ちゃま”はアタシの反応に本当に嬉しそうに笑った。
 ……その笑顔にはどこか羽入の面影がある。
「そう。オヤシロさまは雛見沢の守り神。ボクはそのオヤシロさまの生まれ変わりなのですよ。
 ボクの言葉はある意味絶対なのです。葛西にもお魎にも話をしておきましたので、何も怖いことなんてないのですよ。
 にぱ〜☆」
「――お魎ってのは、園崎家の頭首で、村を支配しているといっていいほどの存在だわね。
 ……わしの兄夫婦がお魎に逆らってダム建設に賛成したおかげで、北条家の肩身はとても狭かった。
 兄夫婦さえ死なんだら、近寄りたくもなかった。――結局、わしはあの村から逃げ出したんだわね」
「鉄っちゃん……」
 当時のことを思い出しているのだろう、とても辛そうな表情だった。
 それにしても、そんな影響力のある頭首や葛西に話を通せる梨花ちゃまって……。
「でもな律子。あの村は、わしがいた一年前とは空気からして全然変わっとった。
 わしに対してもみんな笑顔で、今までのことを謝ってくる者さえいた。前に話した置き去りにした姪の沙都子も、
 学校の友達と一緒になってあの荒れ果てた家を綺麗に掃除して笑顔で出迎えてくれたんだわね」
――鉄っちゃんは、峠を越したアタシが意識を取り戻す前に、突然やって来た梨花ちゃまに
 雛見沢へと連れて行かれたのだという。
 梨花ちゃまの話では半信半疑だったが、実際に歓迎を受けると、不思議に思いながらも嬉しかったようだ。
 鉄っちゃんの口元が緩んでいるから間違いない。
「みー。沙都子を説得するのはちょっと大変でしたが、あの子は一生懸命頑張ってとても強くなったのです。
 きっと律子とも仲良くなれると思うのですよ☆」
――と、笑顔の梨花ちゃまの表情がふいに大人びたものに変わり、
 アタシと鉄っちゃんを交互に見ながらゆっくりと語りはじめた。
「――ここからが本題。律子、鉄平。どうか私を守って欲しい。雛見沢で、二人一緒に。
 六月中には殺されてしまう私を、助けて欲しいの」
「――――――――っ!?」
 これは鉄っちゃんも初耳だったのだろう、梨花ちゃまをまじまじと眺めながら、
 口をパクパクさせて驚いている。
「……そ、そりゃあ、園崎に始末されても不思議じゃねえわしらにここまでしてくれたんだ、恩に応えねえワケには
 いかんわね。――だが、殺されるって言われても……」
 そりゃそうだ。アタシだってあの光景を見てなきゃ、こんなあどけない少女が殺されるなんて、
 しかもあんな酷い殺され方するなんて信じられやしないだろう。
「突拍子もない話ですので、すぐに信じろと言われても無理なのは仕方ないのです」
「――わかった。アタシは信じる。行くよ、雛見沢に」
「おいおい律子、そんな簡単に……っ、」
「アタシの傷……残るんでしょ鉄っちゃん」
「あ?あぁ……その、……そうだわね」
 急に振られて嘘もつけなかったのだろう。あっさりとそれを認めた。
「別に気にしちゃいないよ。雛見沢に住むんならあんな派手な格好もしないでいいんだから、見るのは鉄っちゃんだけ
 だしね。それに――この傷跡は勲章だから」
「律子……」
「ねえ梨花ちゃま。羽入は今ここにいるんだよね?
 残念ながら今のアタシには見えないけど、アタシは梨花ちゃまと羽入を信じるから」
「律子……ありがとうなのです。羽入も喜んでいるのですよ」
「はにゅー?……一体なんね?」
「あーーー、話すとややこしくなりそうだから今は勘弁して鉄っちゃんっ。
 ……退院するまで時間もあるし、後で納得するまでゆっくり話すからさ」
「みー。羽入はオヤシロさまなのですよ。今にわかるのですよ、にぱ〜☆」
「……よくわからんけど、まぁええわね」
「律子。今はとにかく、早く身体を治して。羽入があなたを信じたように、私も律子を信じてるから。
 ……もちろん、鉄平もなのですよ?にぱ〜☆今回は早く起きられたので六月までたっぷり時間があるのです。
 ですからどうか安静にしていてくださいなのです。……それではお邪魔しましたのです。
 今度はボクの大事な仲間と一緒にお見舞いに来るのですよ☆」
 ぺこりとお辞儀をして、梨花ちゃまは病室を出て行った。きっと羽入も一緒だろう。
…………雛見沢。
 羽入はオヤシロさまだと梨花ちゃまは言った。
 ならばそこは、羽入の世界。あの女に縛られて興宮に居続ける必要はもうない。
 鉄っちゃんと一緒に、北条の家で、新しい生活を始めよう。
 アタシが傷付け苦しめた人たちにもう償うことはできないけれど、
 もう二度とあんなことはしない。
 羽入の言葉通り、梨花ちゃまを守ってみせる。
 傷跡を誇りに、アタシは今度こそ名前の通りに生きてゆこう。
――鉄っちゃんと一緒に。





*あとがき*

本当は途中まで書いていた「ファミリー」っぽい話があったのですが、
なぜか急に思いついて書かずにはいられなくなりました。
…きっとオヤシロさまがそうさせたのに違いないのです(笑)。
過去を捏造してごめんなさい。傷物にしてごめんなさい。
でもどんなに強引な方法でもいいから彼女を幸せにしてあげたかったのです。
もし投票してくださった方がいらしたら、ここでお礼を言わせてください。
ありがとうございました☆





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